今は「Midnight Zoo」と「きみのもしもし」を掲載中
by hello_ken1
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そのひとの娘とふたりの記憶



A Little Purple, originally uploaded by j mc.

 そのひとの娘がシャワーを浴びている。
 ぼくはベッドに横たわったままで、カーテンの隙間から見える小さな白い雲を見ていた。
「シャワー浴びるんだ?」
「浴びるよ、汗かいたもの」
「どっかにでかけるの?」
「ううん、帰るだけよ。それともこれからどっかに連れて行ってくれる?」
「いいよ」
「ありがと、でも今日は帰るの」
 そう言って、そのひとの娘は今、シャワーを浴びている。
 ぼくとの記憶も洗い流しているのかな。
 この部屋から出るとぼくとは違う空を見上げて、そして、そこにはどんな雲が浮かんでいるんだろう。

「帰るね」
 帰り支度を整えたそのひとの娘が、ベッドに軽く腰を下ろす。ぼくの唇に軽くキスをする。
 でも、抱きしめようとするとすり抜ける。
 小さく手を振ってひとりドアから出ていくそのひとの娘。
 窓の外、通りから子供の笑い声が聞こえる。母親が明るい声で何か言っている。バスの音も響く。
 そのひとの娘がぼくの肩越しにきっと見ていた白い天井、染み一つない、なにもない。

 壁に掛かっている円時計の秒針の音に耳を傾けていると、携帯がそのひとの娘からのメールを知らせてくれた。
「みんなシャワーくらい浴びるのよ。そろそろあなたも起きなさい。きれいな青空よ」
 さみしがりやさん、そのメールのタイトルが笑っていた。
 そうか、そのひとの娘が流したのはぼくとの記録、ぼくらに残るのはふたりの記憶。
 ベッドから起き上がってカーテンを開け放つと、白い雲はもはやなく、確かに抜けるような青空が広がっていた。
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by hello_ken1 | 2005-12-29 00:46 | そのひと

B.O.D.Y. #17



sunset, originally uploaded by hello.ken1.

ー意識だけの涼子は体を自分以外の者に使われるのを拒んでいる。そして体を持つ涼子はもうひとつの意識にこの体を支配されるのを拒んでいる。ふたりは拒みあっている。結局、意識だけの涼子が体を滅ぼそうとしている。
 祐二は抱きしめながら意識だけの涼子の抵抗を切り捨てることへの躊躇を覚えた。
ー彼女は正しいかもしれない。自分の意志で入れ替わりを希望し、そして再びそれを取りやめる。でも対象になった今の涼子はどうなる。つかの間の違う世界を経験しただけか。そして望みもしないのに消滅する恐怖を味わうことになる。知らないなら知らないですむ消滅する恐怖。この涼子はふたりともその恐怖を味わうことになる。
ー祐二、お前は誰を救おうとしているのか、どの涼子を救おうとしているのか、二人の涼子か、それとも以前の涼子を救えなかった自分を救おうとしているだけじゃないのか、自分自身のためだけじゃないのか。
 意識だけの涼子の気持ちが理解できたように思えるにつれ、祐二は悩んだ。

「わたし、水にも戻れない」
「どうして水に戻るんだい」
「それを涼子が求めている。この体を彼女が欲しがってる。水がもともとのわたしなの。そのくらい覚えているわ」
「ぼくにはミーだったときの記憶がないんだ」
「上手に入替わったのね」
「祐二が最後まで希望したみたいだからね」
「わたしたち涼子はだめだったみたい」
「救えないかな、救いたいんだ」
「わたし自身だった水がもうなくなっちゃってるから、ふたりとも元には戻れないのよ」
「共存は」
「うまくいくはずないもの。誰でも自分の体は一人で使いたいものよ」

 水のように透明度を増す涼子、でも、床に吸い込まれることはない。
 どこまで透明度をますのだろう。
 どこまで姿を残すのだろう。
 祐二の胸から離れ、壁に背もたれる涼子。
 恐がっているのか、喜んでいるのか。
 泣いているのか、微笑んでいるのか。
 祐二が手を差し伸べると、透明な涼子はゆっくりとした動きでその手を拒んだ。
 ただ、うれしそうな目元で。
 それだけははっきりと祐二にもわかった。
ーありがとう。
 二人の涼子の声が祐二の耳にこだました。
ー涼子はうれしいよ、祐二。こんなになっても祐二は優しいんだもの。
 祐二は首を横に振る、唇をかみしめながら首を振る。

 どのくらい時間は経ったのだろうか。
 オレンジ色の陽射しが部屋中にあふれ、優しく涼子を包んでいる。
 祐二はそのまま、透明になっていく涼子を見つめつづけた。

                    完
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by hello_ken1 | 2005-12-24 01:24 | B.O.D.Y.

そのひとと5月と12月

 クリスマス当日の午前中遅い時間に、そのひとから電話があった。
 ぼくは目覚めきれない頭で、カーテン越しに光が延びてくるのを見ていた。
 厚手のカーテンは二十センチほど開いている。その隙間から白いレースのカーテンを通って柔らかくなったクリスマスの光がぼくに少しずつ届こうとしていた。
 放射冷却の影響でかなり冷え込んでいた室内も、こんな時間だと射し込んだ光が暖かくしてくれる。
 それでも冬の空気がほんの少し残っている室内に、今、携帯の呼び出し音が響いている。
ーこの着メロは誰だっけ。
 頭がまだ目覚めていない。携帯がベッドサイドのテーブルで薄く光ながら着メロを流す。
 誰かの歌詞にもあったけど着信音が七回目なんて、着メロを流す携帯にはわからない。
ーあっこの曲っ。
 その瞬間に着メロが留守電の音声に切り替わる。
 そして何も録音されることなく留守電の持ち時間が終わった。
 ちょっと思い悩んだけど、着メロからその電話がそのひとからだとわかった。
 テーブルから携帯を取り上げるとそのひとからメールも届いていた。先日のお礼にとクリスマスの写真が一枚張り付いていた。
 恋人が肌暖め合うクリスマスの朝なのに、そのひとの娘もいないこの部屋。
 ひとりのクリスマスの朝、そのひとからメールと電話が入る不思議な関係。
 ぼくはMay and December couple、そんな言葉を思い出していた。
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by hello_ken1 | 2005-12-24 00:43 | そのひと

B.O.D.Y. #16

 翌朝早く、祐二は涼子のいる自分の街に戻ってきた。
 次の休みには必ず帰省すると母親に告げ、父親にもその旨伝言を残し、実家を後にした。実家を離れてこの街に戻るまで祐二の脳裏には消滅する涼子の姿が幾度となく思い出された。
 あのときの涼子を救うことはできなかった。どんな形であれ二度も涼子を失うのは嫌だ。涼子が自分から離れて行ったとしても、どうであれ、涼子の意識と涼子の姿をしたものをこの世界から消滅だけはさせたくない。祐二はあせっていた。
 しかし、この街に戻ってくると祐二には涼子のイメージが湧いてこなかった。実家で聞いたような激しい声が祐二にぶつかってこない、祐二に助けを求める強い意識がつかめない、存在のかけらすら感じない。祐二は喉に渇きを覚えながら足早に涼子のマンションに向かった。
「生まれたままの姿で一生を過ごせるものなんていないのよ」
「みんなどこかで入れ替わってるんだから。大多数が忘れているだけなんだから」
「あなたを必要としている人がいるみたいね」
「何があっても親子にはかわりないの」
 母親の言葉が祐二の脳裏をよぎった。
 そう、涼子の入れ替わりも受け入れなくっちゃ。涼子がぼくを必要としてるんだ、涼子はまだぼくを必要としている。きっとぼくらの関係はまだ変わってないんだ、何があってもぼくらの心に変わりはないんだ。言い聞かせるように祐二は足を速めた。

 マンションの涼子の部屋の鍵は不用心にも開いていた。
 以前の涼子ならこんなこともないだろう。でもこれが今の涼子なんだ。受け止めるんだ、存在している涼子自身を素直に受け止めるんだ。祐二は、そう自分に言い聞かせ、液体となり床に吸い込まれていった涼子の残像を振り払い、奥の部屋に進んで行った。
「ゆうじ」
 力のない声だった。その声はもはや声ではなく、意識に直接語りかけるように祐二に届いてきた。そして泣き出しそうな顔で祐二を見つめる涼子が部屋の片隅にいた。その場所は床に吸い込まれていった涼子が最後にいたところ。まだ今の涼子は姿形を十分にとどめているとはいえ、吸い込まれていった涼子もこの過程を経たことが祐二には容易に想像できた。姿をとどめず塊となった涼子の言葉が瞬時によみがえった。
「ゆうじ、ゆう、じ、なの?」
「ゆう、じ、なんで、しょ。わか、る、わ」
「わ、た、し、、もう、だめ、みたい、な、の」
「いま、まで、、、わが、ま、ま、ごめん、ね。あり、が、と、、、」
−でも今度は救うんだ。涼子をこの手で抱きしめるんだ。
「祐二、涼子がわたしの中にいる。わたしの中に潜んでる。わたしを水に戻そうと」
 下唇をかむ涼子が両手を祐二に差し伸べてくる。震える肩、震える両手、おびえる涼子がここにいる。
「もう、わたしが、涼子なん、だから」
 精一杯の涼子。
 祐二は滴るような水を体にまとった涼子を躊躇なく抱きしめると、言葉ではなく気持ちの奥底から涼子の心に語り掛けた。
−涼子、お前はもう戻れないんだ。知ってるだろう。知ってて、自分の代わりをこの涼子が演じているのが許せないんだろう。でもね、この涼子を水に戻しても、もうきみは元には戻れないんだよ。きみの意識もこの涼子と一緒になくなるんだから。
「いやぁ、この体はわたしのよ。もうわたしのものなんだから。誰にも渡さないんだから」
 涼子が震える。祐二は声を出した。声を出して抱きしめている涼子に話しかけた。
「涼子、意識を支配しろよ。意識ごとこの体を支配するんだ」

(続く)
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by hello_ken1 | 2005-12-19 00:15 | B.O.D.Y.

そのひとの娘とクリスマスの空



X 2, originally uploaded by Peter Kaminski.

「ママと一緒なんでしょ」
 少しの、ほんのちょっとの沈黙がふたりを包む。
「嘘つけないんだから。わかるわよ、ママもいないし」
「一晩中ママと一緒にいてあげるつもり? 」
 ぼくは携帯ごしに首を横に振る。
「だったらライブハウスにおいでよ。ライブが終わってもお店は朝までやってるからさ」
「誰かにさらわれない限り、待ってるから」
 ぼくは一言頷いた。
 沈黙が、今度は携帯電話に絡みつく。
「今日は何もしてあげなくていいからね。誰かにそばにいてもらいたいだけだから」
「そばにいてあげるだけでいいからね」
 ママは基本大丈夫だからといいたげだった。
 そんなそのひとの娘が、そのとき指先が真っ白になるまで携帯電話を握りしめていたなんて知る由もない。
 ぼくは携帯電話を閉じると、何気に空を見上げてみた。空は青く透明で、街のクリスマス気分に花を添えるように飛行機雲が交差していた。ぼくのそのひとの娘への思いと、そのひとへの思いを表している、その雲を見ていてそんな気持ちが胸の奥に芽生えるのを感じた。
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by hello_ken1 | 2005-12-18 00:42 | そのひと

B.O.D.Y. #15



radial_01, originally uploaded by spoon242.

 祐二は依然変わらぬまま天井を見ていた。視点は定まらない、ただ静かに祐二を思い出していた。窓の外から聴こえる季節最後の蝉の鳴き声も道行く人の声も、祐二の耳には入らない。自分だけの世界で祐二を思い出していた。
ー結局祐二から昔の記憶はもらえなかったけど、それはそれでいいような気がするな。
ー入れ替わったことを祐二は悔やんでなかったし、恨んでもいなかったし。
ーうん、お袋はすべてを理解した上でこのぼくを育ててくれてたみたいだし。
ー祐二は祐二で、ぼくはぼくで、それなりに幸せにやってきたってことだ。
 いろいろ思いを巡らした後、祐二はそう思えるようになった。自分は確かに祐二からも母親からも愛されていたと。それはミーの肉体が朽ち、祐二の精神が消えても変わることはないことだと信じた。
ーぼくは祐二の希望でこの体と周りの人の愛情までをも手に入れることができたんだ。祐二が希望したから、希望して入れ替わった後もこの入れ替わりに関して恨みなんて抱かなかったから。祐二の気持ちが環境をもぼくにとってプラスに影響したに違いない。
 そこまで考えて祐二は、ふと涼子のことを思い出した。
ー涼子も入れ替わりを希望したにはしたのだろう。だからこそ今の涼子が存在しているはずだし。でも消滅した涼子は最後まで希望を貫いたのか、どうだろう。涼子はぼくみたいに瞬時に入れ替わることはできなかった。涼子の姿形が同時にふたり存在していた。どうして。涼子は最後まで涼子の意志のままだった。床に吸い込まれるその瞬間まで。そうだ、きっと涼子は入れ替わりを希望した後に、入れ替わりが始まるとそのこと自体を拒否したんだ。最後の最後まで拒否しながらいなくなったんだ。
 祐二の体が小さく痙攣を起こした。
ーでも、もし拒否しつづける意識までも余すところなく今の涼子が吸い取っていたら、彼女はどうなる。今の涼子が気づかないところで拒否する意識が増殖していったら。
 強い衝撃が体を駆け抜ける。
ー今の涼子も消滅する。
 祐二の体は大きく波打ち、両目の焦点は天井に固定された。心臓は大きく鼓動し、両手のひらは汗でびっしょりと濡れていた。
ー何か聞える。音が脳裏にぶつかっている。音が何度もぶつかってくる。優しい音、激しい音。開こう、音が聞えるようにゲートを開こう。

「祐ちゃん、そろそろ起きよう。自分で起きようよう、祐ちゃん」
 祐二が視点を天井から声のするほうに向けると、母親が祐二の腕をさすっていた。祐二の痙攣など知らないように、ゆっくりと優しく一途にさすっていた。
 優しい音、それは母親の心からでていた。
 母親は視線に気づいたのか、半信半疑でゆっくりと祐二を見つめた。
 祐二が無言で微笑む。
 母親もそっと無言で微笑み返す。ただ違うのは、母親の目は涙にあふれ、それは頬を濡らし、ひざをも濡らした。
 ふたりはゆっくりと静かに、そして気持ちの限り抱き合った。
「おかあさんはね、あなたを愛していますよ。忘れないでね」
 祐二の口は「ありがとう」と動いたが、震えて声にはならなかった。母親は何度も何度も頷いていた。

 そのとき、もう一つのぶつかってくる声、激しい声が祐二の耳に届いた。
「祐二っ」
ー涼子の声だ。祐二の全身が震えた。
「あなたを必要としている人がいるみたいね」
 母親は祐二を腕から離しながら、言葉を続けた。
「行きなさい。行ってその人を安心させてあげなさい」
 母親の優しい笑顔が祐二の緊張をわずかながら和らげてくれた。
「もう祐ちゃんは悩むことはないのよ。あなたとわたしは親子なんですもの。何があっても親子にはかわりないの。それだけは忘れないでね」
 この女性が自分の母親でよかったと祐二は祐二に感謝していた。

(続く)
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by hello_ken1 | 2005-12-11 03:19 | B.O.D.Y.

そのひとが泣いていた



table, originally uploaded by hello.ken1.

 そのひとが泣いていた。
 待ち合わせのカフェに、いつもと同じようにぼくより先に着き、他人との距離を置くテーブルで、泣いていた。
「夕方からデートなんだろ」
 涙をいっさいぬぐわず、着いたばかりのぼくにそう言った。ぼくは答えるのを一瞬躊躇する。
「いいんだよ、夕べそう言ってたじゃん」
 夕べの電話、いきなりの誘い。ぼくは夕方遅い時間からそのひとの娘とライブハウスへ行く約束をしている。
 結局、ぼくはそのひとの言葉に何も答えず、ウエイトレスに手を上げた。
 オーダーしたストレート珈琲を待つ間、ぼくはずっとそのひとを見つめてみた。
 けれど、そのひとはぼくを見つめ返すわけでもなく、視点はぼくの後ろにあった。カフェ入口に飾られたクリスマスツリー、そこにも視点があるわけもなく、そのときそのひとの視点はどこまではるか向こうにあったのだろう。ぼくにはその距離を計り知ることはできず、まして憶測すらしてはいけない、そんな思いがぼくを包んだ。
「つまんないことだよ」
 涙をふこうとせずに、強がっているそのひとがぼくの前にいる。
ー人生につまんないことなんてひとつもないですよ。
 そのときぼくは、そのひとを心から愛おしいと思った。
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by hello_ken1 | 2005-12-11 00:41 | そのひと

B.O.D.Y. #14



Thick Water, originally uploaded by Sweet Carolina.

「祐ちゃん、朝ですよ、もうそろそろ起きなさい」
 ドアが開き、割烹着姿の母親が祐二の部屋に入って来た。
 祐二は視点の定まらぬまま、薄目で天井を見ている。
「まだ、かなぁ」
 母親の後ろには父親も立っている。
「昨日は帰宅そうそうばたばたしたからな」
「お父さんがいけないんですよ。事情もよく飲み込めていない祐二を詰問するみたいに言うから」
「それはあれだ、俺はミーのことをはっきりさせたかっただけなんだ。お前にもそろそろわかってもらいたかったんだよ」
 母親は一呼吸置き、祐二を見つめ直し、父親に言った。
「わかってますよ」
 父親が先に祐二の部屋を出ていくと、母親は部屋の窓を開けレースのカーテンも開いた。午前中のちょっとだけ肌に涼しい風が部屋を通り抜けた。
 祐二の手を取る母親は昨日から気を失ったままの祐二に優しく話しかけ始めた。
「大丈夫よ、安心して。おかあさんはあなたを愛しています。忘れないでね、わたしはあなたのたったひとりの母親ですからね」
 天井を薄目で見ている祐二は心が温かいものに包まれ守られているのを感じていた。
−起きなきゃ、元気なのを知らせなきゃ。
 その祐二の感情に身体が言うことを聞かない。動かぬ体を持ったまま、祐二の感情はまた静かに沈んでいった。

 祐二が床に臥せ、3日が経とうとしていた。
「そろそろ医者に見せたらどうだ」
「もう少し待ってください」
「手後れになりはしないか」
「医者に変にいじられるのはいやです。もう少し」
「うぅん、今日一日様子を見てみよう。それでも目を覚まさなかったら、明日の朝には医者を呼ぶぞ。いいな」

 そのころ、祐二が帰省してからまだ数日しか経っていないのに、涼子の周りでは妙なうわさが飛び交い始めていた。
—ねぇ、涼子って最近あけっぴろげすぎない。
—そう、ちょっと前までのおしとやかさがないのよね。
—よぉ、お前、涼子に誘われたんだって。
—変なんだよ、肌がしめっぽいんだよ。
—髪の毛なんてさ、いっつも濡れてる感じ。
—食事してるとこなんてあんまり見たことないなぁ。
—水ばっかり飲むんだよね。
 涼子の耳に入ってくる噂もあればそうでないものもある。それでも涼子自身にとっては十分すぎるものだった。自分に素直に行動しているつもりの涼子。でも周りの反応は違っていた。
—微妙な外見の違いはごまかせても生活パターンはそうはいかないの?
—そんなに以前の涼子とは違うことをしているの?
—焦りがぼろを出しているかもしれない。
—確かに周りのみんなはこんなに体全体が湿っぽくない。
—そんなに違うの?
—どうして避けるような目で見るの?
 以前の涼子の染みを探すように、涼子は知らず知らずのうちに床を触りつづけていた。窓側近くの床、今となっては染み一つない。見事に涼子はこの世界から消え失せた。跡形も残さず。存在していた証しは現在の涼子だけ。
—わたしと入れ替わった涼子がこのあたりで吸い込まれていったはず。まだ何か涼子からの吸い取り忘れがあったのかしら。そんなはずはないわ。残らずわたしが受け取ったはず。わたしが涼子なんだから。
 蛇口から水滴が落ちる音がする。目覚し時計が秒を刻んでいる。普段なら聞えない音がやたらと耳に響いてくる。窓の外で子供が騒いでいる。車のクラクション。踏切りの遮断機。音が涼子を襲う、音の洪水に涼子の心臓が弾けそうになる。
「祐二っ」
 たまらず涼子が口にしたのはうっとうしいと感じていたはずの祐二の名前だった。わからなかった、なぜ祐二なのか。どうして今、祐二の名前が無意識に口を衝いたのか。以前の涼子が祐二に頼れといっているのか。
 でも、涼子にとって今はそんなことはどうでもよかった。現に心が祐二を必要としている、不安な状況が、不安な心が祐二を呼んでいる。
 涼子はひざを抱えたまま部屋の隅で震えていた。唇が震え、背中が振るえ、心が震えていた。
「祐二、はやく戻ってきてよ。はやく、ここに来てよ」
 自分自身でも体が濡れているのを自覚している。
—汗をかいてるんじゃない。きっと少しずつ元に戻ろうとしているんだ。わたしは戻りたくない。戻らされているんだ。きっとそうだ。涼子がわたしの中に隠れている。涼子がわたしを水に戻そうとしている。いやぁ。もうわたしが涼子なんだから。
 ひざを抱える涼子の周りは水をこぼしたように濡れていた。

 (続く)
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by hello_ken1 | 2005-12-04 18:21 | B.O.D.Y.

そのひととパンケーキ



Åland pancake, originally uploaded by hfb.

 そのひとは、ぼくが夢に出てきたと言う。今朝方の話。でも白馬の王子様って感じゃなく、幽霊が出てきたみたいな言いぐさだった。
「だからさ、ぬーって現れて、そしてわたしを誘うんだよ」
ーもしもーし、何か溜まっていませんか。
 開けっぴろげにそのひとは笑った。相変わらず元気な笑顔をつくってくれる。その笑顔ひとつでこっちまで元気になれるから不思議なものだ。
 そんなふうにそのひとの笑顔を感じていたら、そのひとが注文していたパンケーキが運ばれてきた。
 そのひとは、じっとパンケーキを見つめていたかと思うと、上に乗っているホイップを半分、お皿の端によけ、大きな固まりに切り分けた。ちょっとホイップ多いよね、そう言いたげだった。そしてフォークで口元に運ぶ。そのひとは大きく口を開けると、一口でほおばる。笑顔にもまして見ていて気持ちよいたべっぷりをする。合わせて、幸せそうな表情をぼくに向けてくれる。
「パンケーキ好きなんですね」
 そのひとは驚いたように目を見開いた。
「あれー、今度会ったら好きな食べ物を頼んでいいって言ったでしょう。だから教えてあげたじゃない、パンケーキ大好きだって」
「またぁ、言ってないですよ」
「言ったよ、おごってあげるっても」
ーいつの話だろう。
「あっ今朝の夢だったのかなぁ」
 ふたりして大声で笑ってしまったけれど、ぼくはこのとき、そのひとの大好物すら知らないことに気がついた。
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by hello_ken1 | 2005-12-04 00:39 | そのひと